[代表:高橋和広物語] 家づくりに懸ける想い

私の先祖を辿ると、もとは漁師だったようです。
やがて船大工が家業となり、私の祖父も船大工の仕事を生業としていました。
それが私の父の代では、家大工(やだいく)となりました。
私が34歳の時に独立して作った会社「フォルトーナ」は、
新潟市の皆様のマイホームの夢を叶える住宅会社です。
「社長あいさつ」にも書きましたとおり、“フォルトーナ”とはイタリア語で「幸運」「幸せ」を意味します。
あまりに当たり前のことかもしれませんが、住まい作りでお客様には必ず「幸運」「幸せ」をつかんでいただきたいと思っています。
それも新しく家を建てて入居してすぐはもちろんのこと、ずっと幸せであり続けていただきたいのです。ですので、この会社名にしました。
では、お住まいいただいた方がずっと幸せでいただくためにはどうすればいいのでしょう。
それは、ご家族のコミュニケーションがあることで、
ご家族の皆さんがずっともっと仲良くいられることではないでしょうか。
このように「家」と「ご家族の幸せ」を結びつけて、普通の人以上に考えるようになったのは、
生まれてからこれまでの私の経験から来ているのかもしれません。
私の家づくりの原点をご理解いただければと思い、
恥ずかしながらも幼少の頃からの経験を赤裸々に語らせていただきます。
フォルトーナの家づくりにご興味をお持ちいただいた方だけ読んでくださり、フォルトーナの家づくりへの共感を深めていただければ嬉しく思います。
6畳2部屋の8人家族 ―貧しくも楽しかった大家族―
昭和44年、高橋家の6人兄弟の末っ子として私は生まれました。
私が生まれる前、父はもともと工務店を経営していたのですが、事業に失敗。それまで住んでいた持ち家を失い、私が生まれたときには6畳2部屋の長屋住まい。そこで両親と兄弟6人、計8人の大家族で暮らしていました。
物心ついた頃を今思い返すと、とても狭い家だったのだと思います。でも、小さな私にとってはそれが当たり前の環境。私は元々住んでいた家を知りませんでしたので、家族の中では一番不便は感じていなかったのかもしれません。むしろ、狭いながらも家族のコミュニケーションがあって、暖かいものを感じて育ちました。
それでもやっぱり生活するうえであまりに狭いので、
父が大工修行をしていた兄と二人で古材を使って勝手に庭に増築して、生活スペースを広げていました。
この頃、母が「家が欲しい、家が欲しい」といつも言っていたのをよく覚えています。
父が・・・、姉が・・・。それでも明るく。
父がそれまでに脳梗塞で半身不随となっていたのですが、さらにガンを患い他界いたしました。
そして、まだ落ち着かない同年の秋、嫁いだばかりだった姉が22歳の若さで父と同様に脳梗塞を患い、後を追うように亡くなってしまいました。
このときの経験が今、ヒートショックによる脳梗塞のない、人に優しい家づくりを目指していることに繋がっているのかもしれません。
父がいなくなったことで、もともと貧しい家庭がさら窮地に追い込まれました。
が、母が働きながら私や兄、姉を育ててくれ、その兄、姉たちも順に成人して働いてくれたことで何とか最低限の生活をすることはできました。このように、世間から見れば恵まれない環境で育ったのかもしれませんが、生まれつきの性格なのか、明るく育つことができたと思います。友達も多く、クラスの人気者でした。その後、中学では生徒会長も務めました。
「僕も遠くに行ってみたい。」
学校では明るい人気者でしたが、それでもとてもイヤな授業がありました。
夏休みや冬休み明けの授業で、「休みの間にどこに遊びに行ってきましたか?」とクラスみんなで発表するその日ばかりは、学校を休みたい思いにかられたのをよく覚えています。
みんなが「どこそこへ遊びに行った。」と楽しそうに報告を順番にしているのですが、自分はどこにも連れて行ってもらえていません。
今、私はバイクや車が趣味で大好きなのですが、

子どもの頃の「僕も遠くに行ってみたい。」という思いからこれら自分で移動できるモノに執着しているのかもしれません。
まだできていないことですが、将来、親のいない子どもたちの施設にマイクロバスを寄付して、子どもたちに旅行の体験、思い出を作ってもらうのが夢の一つです。
中学時代は一時母が入院していた時期もあり、あれだけの大家族が私一人きりになったりもしました。
数年前、『ホームレス中学生』という本、映画が流行りましたが、あそこに描かれていた模様は、私にとって全くの他人事ではありませんでした。
中学生で一人暮らしを強いられている私の境遇を知った図書室の先生が、私のために毎日お昼の弁当を作って持ってきていただきました。
育ちざかりだった私のお腹だけでなく心までもがとても満たされました。このときのことは今でもとても感謝しています。
高校生から社会人に。「家を作る仕事をしたい!」
高校に進学するかどうかも迷いましたが、憧れだったバイクを触ることができる工業高校に入学。

早速、免許を取り、校則で禁止されているバイクで事故。瀕死の重傷。4ヶ月間の入院生活を送り、留年まですることに。留年後の高校にはとても居づらく「辞めようかな?」と思ったこともありましたが、その頃読んだ本に「苦難から逃げると余計に大変になる。」と書いてあったことが頭に残りました。
自業自得で起こしてしまったことを深く反省し、その後は一生懸命勉強して、1年遅れで卒業をすることができました。
卒業後は紹介で、あまり深く考えることなく倉庫で働く仕事に就いたのですが、
「俺はこんな仕事がしたかったんじゃない!」としばらくして辞め、次はイベント会社に就職しました。が、また辞めることになりました。
2つの仕事を経験して、自分のやりたい仕事が「家」に関する仕事のような気がしてきたのです。
本当にやりたかったこと、子どもの頃の母の望みであった「家」を提供することだと思えてきました。
その後、ご縁があってある工務店に就職することができました。
憧れの「“家”の仕事」に就いたものの・・・
工務店に就職して営業の仕事がスタートしました。当初は6万円の月給しかもらえず、スーパーで売れ残りのパンを安く買ってお昼ごはんとして食べていました。
が、数ヶ月後には営業成績がグングン上がったおかげで歩合給が入り、月30万円はもらえるようになっていました。
持ち前の明るさ、人当たりの良さだけで受注ができていたように思います。
お客様にもとても喜んでいただくことができ、希望であった「家」の仕事ができてとても満足できるようになってきました。
その矢先のことでした。
勤めていた工務店が倒産してしまったのです。
個人での家づくりの仕事。そして、自分のマイホーム。ところが・・・
工務店が倒産したものの、自分が営業担当で建築中のお客様がいらっしゃいます。
「会社が倒産しました。ですので、後のことは私にはどうしようもありません。」という対応が倒産した後の社員としてせざるを得ない行動だったのかもしれません。
が、20歳そこそこの若造のちっぽけなプライド、責任感でも私なりにそういうわけにはいきませんでした。
お客様のマイホームの夢をなんとか完成させなければならない!との想いが強く、
前の経営者の弟さんや大工さんと協力しながら、進行中の現場を無事引渡しすることができました。
このときはホっとすると同時に、無給であったにもかかわらずとても嬉しかったことを思い出します。
その後、大工さんと協力しながら、私が営業、契約が決まったら大工さんが元請けとしてお客さんと契約するスタイルで仕事を始めました。
私は決まった分、大工さんから営業経費をいただく個人事業主となりました。
当初はとてもうまくいきました。
ちょうどその頃、妻と出会い結婚。25歳にして、自分の人生の中でようやく順風満帆に思えたそのタイミングで、
子どもの頃からの憧れで念願のマイホームを思い切って建てることにしました。
完成したときには喜びが一杯で、まさかこれがさらなる不幸を招くとはその時には全く気がついていませんでした。
「化粧水も買えない。」不幸を招いた家づくり
マイホームを建てた頃、営業マンとして「売ること」には誰にも負けない自信がありました。
が、今思えば、家づくりに関するその他の知識、設計のことや住宅ローンなどお金のこと、
本当は営業マンにとって不可欠な知識が全く欠如していました。
一緒に仕事をしていた大工さんや設計士さんに「餅は餅屋」とばかりに全てをお任せして、
自分は次のお客様を捜して売ることに集中していました。
このことがマイホームを作った後、自分自身だけでなく結婚したばかりの妻までを大変な苦労に陥れることになってしまいました。
家を建てる際、住宅ローンを借りられるだけ目一杯借り、
ステップ償還という当初の返済額は小さいけど徐々に返済額が増える返済の仕方を選んでいました。
当然、家を売る身ではありますので、正確には、沢山の借り方の方法は知識として持っていたのですが、
いざ実際に自分のローンとなったときの選択は、今思えば、その目算が甘かったと言わざるを得ません。
仕事が順風満帆のままなら返せるはずだったのですが、予定していたほど家の受注ができず、
月々増えていくローン返済額に圧迫され、日々のやりくりに苦しむ生活に逆戻りしてしまいました。
当時を思い出して、妻から「あの頃は化粧水も買えなかったわ。」と最近になって聞きました。
このときのことを含め、妻には本当に苦労をかけっぱなしで申し訳なく思っています。
でも、このときの経験を踏まえ住宅ローンについては徹底的に勉強しました。
お客様には自分と同じようにマイホームを建てて、住宅ローンに苦しめられて不幸になってしまうような本末転倒なことには絶対になってほしくありません。
このことがきっかけで、建築予算やローンについてもじっくり打合せをさせていただくようになりました。
ご家族のコミュニケーションのあるマイホームで幸せになっていただきたい
自分のマイホームを持ってすぐに苦労をしたことで、営業だけでなく他に、
・・・住宅ローンなど資金面のご相談に留まらず、自分で住宅設計もするようにもなりました。
お客様の夢の形をお客様の代わりに自分自身で具体的な形にするお手伝いをしたい、と思い設計の勉強も始めました。
現在は2級建築士の免許も取り、十年以上、設計者として実務経験を積み、
また、現場監督としても実際に現場に入り、企画~設計~建築までの全行程を自分自身で行なうこともしてきました。
そのような経験から、お客さんの夢を叶える設計力、そのバリエーションでは他の設計士さんには負けないつもりです。
元請けとして責任の取れる必要から会社組織として、平成14年に「(有)フォルトーナ」を創業、建築業者登録も済ませました。
今では信頼できる大工、現場監督も仲間に加わり、自信を持ってマイホーム作りをお手伝いできる会社となりました。
これまで私の仕事での経験はもちろんのこと、小さい頃からの苦労も含めて、全ての経験が今日の糧となっています。
今まで出会ってきた方、全てに感謝したいと思います。
この感謝の気持ちを、これからマイホーム作りで出会うお客様に恩返しのつもりで一生懸命がんばりたいと思います。

お一人でも多くの方がマイホームをフォルトーナで建てることで「幸運」「幸せ」をつかんでいただければと思います。
あなたの夢が一杯詰まった、ご家族のコミュニケーションのある家づくりをあなたにも。
(有)フォルトーナ 代表 高橋和広
















